昭和四十七年二月十日 朝の御理解


X御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」


 私はこの八十八節を頂いてね、今日はここんところをようわからせて頂いたら、それこそおかげにおかげの花が咲くというか、穂に穂が咲いたという程しのおかげを頂いたという程しの御理解だと思うですね。昔から娘を嫁にやる時に、親が鏡を持たせると仰ってあるが、言うならお嫁入りする前の娘さんになさったこれは御理解だと思うのですけど、これは決して嫁入り前の娘だけにでなくて、これは男も女も誰でもがここの真意というか内容を頂かなければならない。
 しかもその内容が分かって、その内容が頂きこなせれるようになったら、もうおかげにおかげの花が咲く程しの、私はおかげの頂けれる御教えだと思いますね。穂に穂が咲くというようなことを申しましょう。そこんところを私ども例えば、踏んだり蹴ったりといったような言葉がありますね。それこそ泣きっ面に蜂といったようなことがあります。それこそ、泣きっ面に蜂と言ったような、苦に苦が重なるといったようなんですよね、悪い顔するのは。
 ですからここんところを悪い顔せず、日頃の教えの鏡を前に立ててここで信心の稽古をさせて頂くんだなと。ここが普通なら泣きっ面に蜂というところであろうけれども、御神意を分からしてもらい、御神愛を分からせてもろうたら、それこそ穂に穂が咲くような、広がった上にも広がって行けれるおかげが頂けれるところだと一つ分からせてもろうて、本気でそれを信心でこなして行かねばなりません。
 私は今日八十八節からそんなこと感じたのです。八に八とは、八とは広がることです。私どもがこの御教えを頂き抜かしてもろうたら、確かに成程穂に穂が咲くような、私どもが願って止まない、それこそおかげはいらんというても、神様の方から下さられねばおかんという働き、一つの神様の働きというかね、神様が発動ましますとでも申しましょうか、神様が発動まします程しのおかげの頂けれる御教えだと思うですね。
 だからと言うて、辛い、悲しいと言うて鏡を立ててみて、自分の顔が悲しい顔したりしておってはならぬ。そういう顔を人に見せぬように家を治めよというふうに教えておられ
ます。ところが、どうしても思うことは顔に出てくるわけです。特に女の方達はやっぱりそれが激しいですね。すぐ顔にあらわれる。だから出来た人のことを、あちらはいつもにこにこしておられる。どんな場合でもいつもにこにこしておられると。それがやはり人間が出来ているとか、辛抱強いとか、といったようなことがですね。成程人には悪い顔を見せない人もある。
 自分の腹はもうぐうぐう言いよる。心の中では泣きよる、けれども顔ではにこにこ笑っておるというのではいけんのですよ、ここが。それこそ市松人形じゃないけれども、顔で笑うて心で泣いてというようなことではいけんのです、ここでは。ですからそういう場合に、本当に心でも有難いと思わせてもらうところに信心が出来るのではないでしょうかね。
 皆さんしっかり一つ今日はね、おかげにおかげが重なって、穂に穂が咲く程しの広がりに広がって行くようなおかげが頂けれる御教えだ、御理解だと、そう思うて御理解を頂いて頂かねばなりません。おかげを頂かねばいけません。お互いに頂きたいのですから。天地の親神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのですから、その中身が信心でなからなければいけんわけでしょう。神様はもう下さりとうてたまらん。私どもは頂きとうてたまらん。そうでしょう。ですからそこに例えば、おかげが受けられんと言うならば、信心してというところが欠けておるからなのです。信心してということは、ただ参っとります、拝んどりますではなくて、いわゆる本当の信心を、そのことを通して分からせて頂くということ。
 昨日、ある方から、それはその方にとっては大変深刻なお届けがありました。丁度昨日の御理解のような風だった。人が顔にかかわるようなことを言うてもという御理解でした。それこそ自分の顔にかかわるような、それこそ名誉毀損といったようなことをある人に言われて、心外でたまらん。というのでお届けをされたのです。
 日頃そこのところが信心さして頂いとるのですから、こうでございましたけれども、それを神様の声として頂くところから、例えば乞食じゃと言われても、泥棒と言われても、腹を立てなと仰るくらいですからね。だからそんなひどいことじゃない。時にはやはり本気で、例えばそれを神様の声として頂くならば、本当に自分が泥棒しとるとじゃなかろうか、自分が乞食のような根性があるのじゃなかろうかと、やはり自分の心の中に、問うて見なければいけない。 俺が何時泥棒したか、火の気のないところに煙はたたんと昔から言う。これはもう厳密に厳密に、それこそ自分の心を顕微鏡で眺めるように、自分というものを深く深く見極める、たところから、私は言うておるわけですけれども、成程泥棒と言われりゃ、本当に自分の心の中に泥棒が住んでおる。貧乏じゃと言われりゃ、本当に自分の心の中に乞食が住んでおる。顕微鏡でみてご覧なさい、自分の心にそれこそ黴菌のような、そういうような、ように言われれば、言われるようなものがあるのです。
 で、そのことを神様にお願いさして頂いとりましたらね、『認』という字を頂いた。言べんに忍と書いてあります。これは人がそう言うておることを腹を立てるな。言うておる
ことを忍べと、ということは、あんた泥棒じゃなと。それを言い訳もせずに、それを黙って忍ぶことは、自分が泥棒であることを認めたことになる。という風にも頂けますね。
 けど、ここで、「私が何時泥棒したか」と言えば信心にならんのですよ。やはりそれは認めるべきだ一応は、その人が言うておることが本当でなかったにしても、そういう内容が心の中にあるのだ。いよいよ顕微鏡、いよいよ鏡を前に立てなければならんのです。いわゆるここで、「家を治めよ」とこう言われる。自分の家を治めるということは、自分の心を治めよということである。心を治めなければ、治めるという字をいつも頂くように、さんずいへんにム口と書いてある。自然に起きてきたことを黙って受けるということ。これが一番素晴らしい治め方が出来るのだと。私は信心さして頂く者はここのところが、段々に出来る稽古をせねばいかん。
 ですからそのことを以て、信心の稽古をさせて頂くのだと同時にです、例えば「お前は泥棒したな」とこう例えば言われてもです、それを黙って忍ばせてもらうということは、相手が言っておることを認めたかのようにあるけれども、実際は自分自身の心の中に、そういう内容があることを発見さしてもろうて、いよいよ改まりに改まりして行かければなりません。
 ですから、一応これを認めれとこう言うのです。人が言うておることを、それを認めれ。そこの信心が出来た時に、神様が私は認めて下さると思います。ここが素晴らしいところです。日頃の信心を、日頃の信心を言うなら、教えの鏡を前に立て、眺めておる。それを神様が認めて下さる前に、だから自らそれを認めなければならん。俺があんなことを俺に言うた。あんな恥ずかしいことを俺に言うた。それこそ敵討をしたいというたような心などというものが、もう微塵もあってはならないのです。よし一ぺんは言うて返さにゃといったようなものが、決してあってはならんのです。
 例えば、そこで私どもがです、悲しい淋しい顔をしたり、腹を立てたりするということは、言うならば検討違いのことなのです。だからそういうことではおかげにならん。ただおかげを頂きたいではなくて、それこそおかげにおかげの花が咲くような、穂に穂が咲く程しのおかげを頂くためには、ここのところ辛抱ということにもなるか知れませんが、ここんところを信心辛抱させてもろうて、いわゆる信心、おかげが受けられるのはここんところ。おかげをやりたい、おかげを授けたい、おかげを頂きたい、その両者が相対しておかげが受けられんのは、そういうところを信心辛抱しきらんからおかげにならんのだとまず思うてよいのです。
 神様が人の口を以て注意をして下さる。またはお叱りを下さる。そういう頂き方が本当に出来るような信心を身に付けなければ、そういう信心が出来るところに、神様が下さろうとするおかげ、私どもが頂きたいと思うおかげ、そこにいわゆる交流するものがあるわけです。ただおかげだけ願うという、さあおかげ頂かれても、おかげにおかげの花が咲く程しにならんです。八十八節と、八にはならんです。
 それは本当に血の涙の出るような思いがすることもありますけれども、御教えを頂きよ
りますと、本当にそうだったと分からしてもらう時に、血の涙が有難涙に変わってこなければいけんです。検討違い、中々ねここんところ分かっておるようで、実際問題に直面しますと、すぐ自分の観念といったようなものが出て参りましてね、成程ただおかげを頂くだけでなくて、おかげにおかげの花が咲く程しのと言うのですから、やっぱりちっとは難しか。
 けど本当に信心の内容が分かったらです、それを神様のお声を頂ける程しのおかげを頂いたら、有難いことだけでなく、それこそただ黙って認めるというのでなくて、認めなければ馬鹿らしかです。その姿に今度は神様が認めて下さる、それがまた有難い。神が顔を洗うてやると言われるのもそうである。家を治めよという、本当に黙って治まる。治めて行くという素晴らしいことになってくる。
 昨日私は大変失敗したことがあるのですけれども、もう本当にいつも和尚のようなこつばっかり言いよるばってん、さあ問題になるとこんなにつまらんかと思うて、自分は昨日反省させて頂いたことですけどね。今日が十日ですから、ここの支払い日なのです。昨日一日経理をしとります茂さんが、今日の支払いが出来るために、チャンと銀行関係のことから何から支払いのところなど全部書類を整理されて、今日は何時でも集金にこれるようにしてあるわけなのです。
 ところがちょっと昨日は金額が多かった。もう何十万何十万ちゅうのがいくつもあって、ちょっと私が昨日聞いただけで、百二十万からある、支払いがあるわけです、ねえ今月。そこでどこどこにいくら支払いますと度に、私が言うとることです。例えば商品に例えますならば、あの商品はまだあそこがいけなかった、あそこがいけなかったから、あそこのところを取替えるなら、取替える、修繕させてから、払わにゃいけませんよといったようなことを言うておるです。
 だから向うが百万要求しとるなら、半分なら半分やっとったらどうのとかというようなことを言うとるです。そして「大体支払うお金はあるとね」と。こっちはいつも無関心でおりますもんですから、もういつも繁雄さん任せ、茂さん任せですね。そしたら、「まあがつがつではありますけど、支払って頂けば支払います」とこう言う。「それでは支払って下さい」だけれども、その支払って下さいというその内容は、神様の気感にかなわぬことだったと。なぜかと。自分の金でばしあるごと、自分が払うとでばしあるごと、ここなんですよ、検討違いというのは。
 御理解三節の一番大事なところは、「天地金乃神と申すことは、天地の中に氏子おっておかげを知らず」といったようなところが、非常に問題になって、大事なところにされておりますけど、実は御理解三節の一番大事なところは、「氏子の家屋敷皆神の地所」と。それは神仏の宮寺、氏子の家屋敷皆神の地所」と。「そのわけ知らず、日柄方位ばかり見て無礼いたし、前前の巡り合わせで難を受けおる」と。大体ここのところが一番大事なところなのです。誰でもここの所は大事な所に言いません。
 ということはどういうことかというと、これを何何様の境内だと言ったり、これは私の
田圃だと言ったりすることはです、これは検討違いな思い方なのです。皆神の地所なのです。どれだけ財産を持っておっても、自分の財産じゃなくて、それは神様の御物であり、神様のお金であり、神様の地所なのである。それを自分の物のように思うところに、検討違いがある。
 そして、日柄方位が見るようということは、検討違いのことをしておることがです、しかも、前々の巡り合わせになっておるとさえ仰っとるです。ここが一番大事なところ、そういう考え方、例えばいくら集金に参りましてもね、なかなら仕方がない。けど支払うものがあるのならね、ああそうですかと支払ったら良いのである。言うなら、神様のして下さったことに、ケチを付けるようなことを、言うたり思うたりするということが検討違い。
 今月はいくらいくら払わにゃんとに、そげん払いよったら、どこどこには払われんてんなんてんな考えが、自分が払おうと思うとるからそういうことを言わんならん。神様の、それこそ自分の金でばしあるように、自分で支払いをしばしするように、私どもはいつもそういう観念でおるつもりなのです、私どもは、私自身が。ところが観念のそこに、まだ自分が支払いよるようなものがあるからこそ、そういうことを言わなきゃならん。検討違いでしょう。
 それは神様に無礼することになる。そしたら神様からですね、お知らせに頂くことが、大きなビア樽のような大きな樽なんですよね。ビア樽は樽形になってるでしょう。そのビア樽が横に置いてあるわけなんです。そして一番上に穴をあけとる。だからビア樽が一杯に入っているのではないですから、一番上の所だったら、空の所にホースを突っ込んどるようなものですよね。そうでしょうが。ビア樽がこうしてますから、横になったところの一番上、言うならば浅はかな思い方を言うのです。そういう浅はかな思い方では神様の心を貫くことは出来んぞと。
 それこそここんところを日頃の信心でです、信心の中心になるところにホースを突っ込んでみなさい、そこには一杯のビールが入っとるとです。酒なら酒が入っとるとこ、そこを浅い考えで上の方のところにこうやってホースを突っ込んでおることでは、全然出るはずがない。そこの辺の意味が分かったでしょうかね。ビア樽がこうある、横に置いてある。その上の所にホースを突っ込んだようなもの、そこには入っとらんところじゃもん。
 私が昨日ちょっと自分の心を掠めたものはです、それこそ自分の金でばしあるごと、自分が支払いばしするごと、神様が払うて下さるのに、私がそこに悶着つけることはいらんじゃないか。本当に恥ずかしいこと、神様はいつもは大きなビア樽のごとある胸を持っとるように人にも言うたり、自分も思っとるけれども、さあ実際の場になったら、お前の考え方はこんなに浅いぞと指摘して頂いた気が致します。
 いわゆる、私の検討違いを正して下さったんです。しかも検討違いそのものが、前々の巡りで難を受けおるというような、御無礼になるのです。自分の金でばしあるように自分でばし払いばしするようにと神様が仰っておられるのです。私が払わんならん。これは私
の物、そういう思い方がです、さっき頂いとりますように、観念の中からすっきり抜けなければいけんのです。
 この観念が抜けるそういう一つの手立てを、例えば大阪の玉水の初代が仰ったようには天地の親神様、親神様がご主人で、主人は番頭、家内は女中頭というような表現で教えておられます。ですから、どんなに店にお金が貯まっても、どんなに借金があっても、その借金そのものはもうご主人のもの、天地の親神様のものだと。ここを抜けとるとです、そして、神様にどこどこにいくらいくら支払わねばなりませんよと、言わば忠実な主人に対する番頭さんになればよいというふうに教えておられます。
 これなんか素晴らしい、自分の観念を抜かせてもらう、一つの方便というかね、手段といいますか、素晴らしいことだと思いますね。やはりおかげ頂けるはずです。自分のものとしてない。その代わり今度は反対に借金でなくて、いくら金が貯まっても、やはり神様の御物であるし、神様のお金であるからどこにいくら出さしてもろうても、神様のお許し頂いて、その働きが良ければ良い程、給料が高くなってくるようなおかげを受けるというような、そこのところ説いておられます。私の物、私がというその観念がね、取れなければなりません。
 昨日の私の失敗からです、「そげなもの払いなさんな、やめときなさい、もう断っておきなさい」と言ってはない、払ってはおるけれども、そこに例えば色々な悶着をいうことは、自分が金を自分で払うようなつもりでおるところに、そういう結果になっておる。しかもそのことは、実に浅はかなもの、日頃の教えはどこに立っておるか、それこそ大きな信心、大きな腹、大きなどん腹を持っとるように人にも言うたり、自分でも思うておる。けど、実際問題になると、浅い、考え方が浅い。もちっと深く突っ込んで、いわゆるそのことを通して、神様の神意に触れて行かねばいけません。
 いわゆる鏡を立ててそういう時に、払うような顔をすること。どうぞ払うて下さい、それだけで良かわけです。いわゆる神様の心の真中に鏡を立てて、鏡を見るということは、いわゆる教えをそこにおいて、日頃の頂いておる教えを以て、そこに処して行くような生き方が、有難い。いわゆるそこにはそのビア樽の中には一杯入っておるのですから、余り浅いことを言うもんだから、その浅いところにホースを突っ込んでおるようなものですから、その中心になるところに心を働かせて行くようなおかげを頂いたら、限りなくおかげを頂くということを改めて知らせて頂いたような気が致します。
 してみると、八十八節は決して嫁入り前の娘さんだけではないことが分かりますね。そういうようなことを、私どもが体験させて頂いての嫁入りであり、ことに処することである。ことを運んで行かねばならんことであります。今日はここの所の内容を二つの例を以て申しましたですね。
 人がこういう例えば顔にかかわるようなことを言うておる、また私も直接言われた、実に心外でたまらんと言わずに、それをやはり自分の心の中に、泥棒と言われれば泥棒、乞食と言われれば乞食、根性が自分の心の中にある。自分では分からん。けれども、心の眼
を以て見よ。顕微鏡で眺めるような気持ちで、自分の気持ちを眺めてみよ。必ず泥棒根性もあれば、乞食根性もあるのだ。
 してみるとその人は、その人でなくて、神様がその人の口を借りて、そのことを仰っておることを、まず認めよということである。認めることから神様が認めて下さるということは、家を治めるということになり、まあ例えて言えば、顔は神が拭いてやると仰るそれである。神様が認めて下さるということは、あの氏子はと言うならば、認めて下さるということが、今日私が言う、おかげにおかげの花が咲く、八に字が八の字に重なって行く程しのおかげを頂くためには、やはり神様に認めてもらわねばならん。
 自分で大抵良い加減分かっておるようである。神様の御物、神様の金だと、そういう観念であって、支払うことになった時には、それに惜し気が付いたり、それに自分の金であるように思うたり、自分が払うように思うたり、例えば神様、今日の御理解で言うと、ビア樽の真中にホースを突っ込むようなものですから、限りないおかげに触れられるのであるけれども、浅はかなこと。目先の汚いこと。いわゆる鼻先の穢いことを思うたりしてるところに、おかげが浅はかなものになってくるのです。だから願うだけは願うから、おかげを頂けるけど、それではおかげにおかげの花になるような、穂に穂が咲く程しのおかげにはなってこんのでございます。
 私どもはいつも心から、言わばにこやかな顔をしておりたい、いつも有難そうな顔でおりたい、それは心が有難い、心がにこやかであるから、自然顔に出てくるというようなおかげを頂きたい。本当に嫌ですよ、ぶーっとしたり、くーっとしたり、苦にしたりするのが、傍からにおるだけでも嫌です。ですからおかげも嫌です、そげんと。
 だから、おかげの方が寄りつかんです。やはりにこやかに、だから今日私が申しますところの、信心の信の真というところから分からしてもらうところに、例え泥棒と言われても、おかげという風に心の中に頂かれるのです。誰もこげな深刻なことは言うてくれんです。もうこの人なればこそ、いや神様なればこそ、この人を通して、こう言うて下さるんだと思うたら、それが有難い。
 そこんところを一つ体得させて頂きますと、いつもにこやかでおれるのじゃないでしょうか。いつも有難そうにしておられるのじゃないでしょうか。そういう時にです、おかげの頂けんはずがない。私どもが検討違いをしておるところに、の検討違いの観念を、本気でそこに取り組ませてもらってお供えさせて頂かねばなりませんですね。どうぞ。